晩夏の庭から、蝉の声が溢れる。竹中半兵衛は紙に汗が滴るのもかまわず、文机に向かう。半兵衛が書き留めているのは、葬送の記憶だった。
半兵衛が元服を迎えたころ、美濃国守護代斎藤道三とその子高政の間で争いが起きた。半兵衛の初陣は、そのときである。半兵衞は父とともに道三に味方し、敗北した。その後高政の軍に組み込まれ、数年と経たぬうちに、高政が急逝した。高政は三十三歳という若さだった。
道三が敗れた直後、はじめて目通りした際、
「四書五経を二年年で読み上げたそうだな」
と、呼びかけられたことを、覚えている。
「儂は六年かかった。半兵衞、たのみに思うぞ」
高政の声は意外なほどあたたかい。心配りをされている、というたしかな感触がある。内乱のあととは思われぬほど家臣団はよくまとまった。高政の存命中、斎藤家は尾張勢の侵攻を防いだ。
今にして思えば、自分は高政にとって気安いところがあったのだろう。道三の治世を深く知らない半兵衛は。
半兵衛が高政を主君として仰いだのは、初陣から十七歳までのたった数年である。高政は内政に心を砕いた。家臣たちは高政を支持したが、その讃辞には影のように、先代との比較が付きまとっていた。
半兵衛は手を止めた。
筆の先から墨汁が滴って、落ちる。
家中のために心を傾け、磨耗した。それが高政の早すぎる死につながったのではないかと、半兵衛は思っている。
絶えず聞こえる蝉の声が、耳鳴りと響きあい、半兵衛は振り払うようにかぶりを振った。
耳鳴りはやがて、鐘の音に変わる。
高政の葬儀は国を挙げて執り行われた。響きわたるような読経に紛れて、囁きが低く交わされている。美濃の先行きを嘆く声であり、声をひそめた罵声でもあった。
(頼芸様が…)
(道三様が……)
それは高政の遺児、龍興が幼くして国主となることへの不安であり、高政の方針が志半ばで放り出されたことへの不満だった。さかのぼれば高政が道三との対立により争いを起こしたこと、道三が頼芸から守護代の位を簒奪したこと、頼芸が兄政頼との跡目争いのために道三を頼ったことへの。家臣たちの不安と不満がさかのぼることは、半兵衛には際限なく感じられた。
高政が道三ではなく頼芸の種であると名乗ることは、こういった不平や不安をひととき忘れさせるものであり得たかもしれない。高政の存命中、家臣はみな偽りであると知っていたこの話は、葬儀と前後し、真実として広まっていった。半兵衛はそれを、そら恐ろしい思いで眺めている。
高政は半兵衛にとって、尊敬に足る主君であった。同時に、偽りとともにその地位に就いた主君でもあった。半兵衛はそのことに、今でもおさまりがつかないでいる。
半兵衛は筆を置いた。客人の気配がした。
「半兵衛様、」
家の者が遠慮がちに呼ぶのを聞いて、
「お通しせよ」
半兵衛は答え、客間に向かった。
「……あなたも、飽きませぬな」
半兵衛がわざと呆れたように口にしたが、その人物はどこ吹く風の様子だった。木下藤吉郎と名乗る男は、白い歯を覗かせて、ニカッと笑ってみせる。そこだけ光が差したような笑みで、半兵衛はどことなく太陽を連想する。
かつて高政にそのように思ったこともあった。
半兵衛はこの年の二月、わずかな手勢を率いて斎藤龍興の稲葉山城を奪った。半兵衛は城を七月に返却し、自らの居城の菩提山城に引き上げている。その噂を尾張の織田信長が聞き及び、家中に加えんとして藤吉郎を遣わしたのであった。
「たびたび申し上げましたが、此度のことは、主君龍興を諫めるために行ったことです。藤吉郎殿にはご苦労なことですが、信長殿にお仕えするつもりはありません」
「つれないことを申される」
藤吉郎は顎を引き、半兵衛を見上げるようにして眺めた。窺うような表情だが、どことなく、賢い獣のようでもある。藤吉郎は人好きする人物のようでいて、時たま油断のならない面を見せる。
「では、信長様ではなく儂に仕えるというのはどうです」
「……ほう、」
半兵衛は、藤吉郎の油断ならなさを面白がっている自分に気がついている。
自分は遠からず、斎藤家を離れるだろう。
瞼の裏に眩しいものがよぎったようで、半兵衛は左手を顔の横にかざした。
「どうかなさったのですか、」
「いえ……」
半兵衛は藤吉郎から視線を逸らす。
このように過ぎていく、と半兵衛は思った。なにひとつ、おさまりがつかないまま。
――私はあなたの遺したものの、息の根を止めるのだ。