太陽は沈む

太陽のようだと思ったこともあった。昔のことだ。
兄、斎藤高政が急死したという報せが帰蝶のもとに届いた。突然の訃報であった。五月、織田家の屋敷の庭はどこまでも明るい。萌黄はしたたるような緑へと移り変わりつつある。濡れ縁に座っているとまだ暖まりきらない空気が頬を撫でる。あるいはこの空気は、爽やかとも呼べるものかもしれない。このような時節に死の報せを聞くことは、いかにも皮肉だった。
せめてもの手向けに、兄の記憶を手繰ろうとする。よみがえるのは、つまらぬことばかりだ。子どものころ、十兵衛にやろうと取っておいた干し柿をひょいと食べられてしまっただとか。手習いとは何をしておるのかと問うていると狩りから帰った兄が獲物を見せにやってきて、十兵衛と話しはじめてしまっただとか。
「兄上。十兵衛は私と、話していたのです」
むくれると、兄はまったく気づかなかったと、そういう顔で、「それは済まなかった」と笑い、十兵衛との会話を再開した。高政はそのとき紅樺色の直垂に鬱金色の射籠手、腰を鹿の夏毛革で覆っていた。狩りする際のいつもの装束だったが、帰蝶はその取り合わせに太陽を連想した。陽のあたる庭を背にした兄の微笑が、そうさせたのかもしれない。
異母兄であり敵国という仕儀になったものの、憎みあって育ったわけではない。それでも兄高政のことを思い出そうとすると、得られなかったものが帰蝶の脳裏をかすめる。
(兄上、)
帰蝶は、眼を見開いたままうつむく。
(…なにか、掴めましたか、)
兄が掴めなかったものを、考えずにはいられない。父の承認を渇望しながら弟を殺し、結局父を弑した。十兵衛も、美濃にはもういない。高政の早すぎる死を好機として、信長の美濃侵攻は勢いづくだろう。
「……帰蝶、」
濡れ縁に裸足を放り出し、帰蝶の膝にまるい頭を預けている信長の声に、帰蝶は引き戻された。童子のような両の眼が、帰蝶を見上げている。幼いほどにあたたかい手が、帰蝶の頬に触れる。
「そんな顔をするな。美濃をやる。ゆえに、そんな顔をするな」
いつの間にか太陽は傾きかけていて、少し寒い。帰蝶は信長の手に、自らの手のひらを重ねる。
「……取り返せるでしょうか、」
「義兄(あに)からか?」
「なにもかもから、なにもかもを……」
私たちはよく似た兄妹だったのだろう、と帰蝶は思う。好きになるひとは同じだった。けれど帰蝶は、信長にも似ている。この子どものような良人(おっと)と。
帰蝶はひとつの太陽に別れを告げて眼を閉じた。

私もこの人も。
子どもたちはやがてすべてを手に入れて、泣いていたことなど忘れるだろう。