高校生の泰時くんと大学生の実朝さん

北条泰時は成績優秀だったが、国語が苦手だった。完璧にできたと確信してテスト用紙を返却しても、かならず数問間違えている。解説を読んでもいまいち納得ができず、理由が分からないから改善のしようがない。成績が伸び悩む。高校二年生の秋だった。両親は予備校の特別授業に申し込むことを検討し、泰時もそのつもりだった。だがある日、母の比奈は伯母の政子のもとを訪問して帰ってくるなり言った。「実朝さんに家庭教師をしてもらったらどうかしら?」という提案だった。

 

 

現在も親どうしの行き来はあるのだが、実朝と顔を会わせるのは数年ぶりだった。泰時は時間になると比奈とともに玄関先に実朝を迎えにいった。
「こんにちは、お久しぶりです」
実朝が比奈と泰時に挨拶をする。実朝は綿のシャツに葡萄茶色のカーディガン、黒いチノパンといういでたちだった。
「お久しぶりです」
泰時はぺこりと頭を下げて、返事をした。泰時の身長はここ数年でぐんぐん伸びたため、実朝を見下ろすようになっている。
「しばらくしたらお茶とお菓子を持っていきますね」
「お構いなく」
「ありがとうございます、母さん」
比奈は一階にリビングに残り、泰時は実朝を二階の自室に案内した。
幼馴染みの鶴丸や家族以外が自室に足を踏み入れることは少ない。散らかるほど物が多いわけでもなく、片付けてはいるのだが、泰時は、部屋を見られるのが恥ずかしいような気がした。実朝の黒目がちな瞳は部屋を興味深そうに見回したが、幼い頃と変わらず、実朝は余計なことは口にしなかった。
泰時は勉強机の右側に置いた椅子を示して、
「こちらに座ってください」
と促した。
「すみませんが鞄は適当に、ベッドの上にでも」
「ここで構わない」
実朝は泰時の示した椅子に腰かけ、鞄を膝にちょこんと抱くようにして載せた。泰時も勉強机の椅子に着席する。
「試験の問題と答案を見せてもらってもいいだろうか、」
「は、はい」
泰時はあらかじめクリアファイルにまとめてあった定期試験や問題のプリントを実朝に手渡す。記憶のかぎり、こういうときに冷たいことを言うひとではないのだが、どぎまぎと、背丈の伸びた身体を縮めるようにして、泰時は机の上の実朝の細い指が試験の答案用紙をめくるのを見つめていた。実朝のまとう空気は穏やかで、いやな感じではないが、緊張する。時間にしてみれば十分も経っていないだろうが、ひどく長く感じた。
実朝の頬がふ、と緩んだ。草食動物のような目元にも笑みのようなものが浮かんでいる。
「……なんです、」
泰時は尋ねた。思ったよりも子どもっぽい声になって、唇を尖らせていることに自分で気がつく。きまりが悪くなる。
「すまない。笑うつもりはなかったんだ。あまりにも、誤答の傾向が分かりやすくて」
「ひどいなあ」
「太郎は、すぐに全問解けるようになると思う」
実朝は真剣な顔になった。泰時は子どもの頃のように、「太郎」と呼ばれることがくすぐったかった。「太郎は現文の読解の四択問題で誤答することが多いようだ」
「はい」
それには自覚があった。泰時は頷く。
実朝は試験の問題と答案用紙を泰時に返却した。つい先日の定期試験の現代国語のページを開き、①から④までの文章が並んだ四択問題を示す。
「こういう現国の問題の、傍線部や作者がつまり何を言っているかを質問される四択問題において、ほとんどの場合ひとつはあきらかに問題文から外れている」
実朝は右手の四本の指を立てて、人差し指を折ってみせた。
「実質的には三択だ。太郎の読解力ならそれは分かっていることと思う。こういう問題には、あとの三つに『常識や一般論から照らし合わせると正しいが、問題文とは矛盾するもの』が挿入されていることが多い。太郎はそれに引っかかる傾向がある」
泰時は解答用紙に視線を落とす。③を選び、それで×をもらっていた。
「こういう問題の正解は、本文の中に必ずある」
「かならず?」
「そうでなければ、正解のある問題ではなくなってしまう。試験問題としてはふさわしくない」
「なるほど…?」
何問か解いてみようか。
泰時は予備校で使用されているテキストに手をつけた。筆箱を開けて愛用のシャープペンシルを握り、まだ手をつけていなかった現代国語の四択問題を、解きはじめる。
そうすると実朝の言う通り、四択問題のうちのひとつは明らかに問題から外れたもの、残り三つのうち一つは常識には沿っているが問題の主旨からは微妙にずれていて、残りの二択がラインマーカーを引かれたように浮き上がって思えた。本文と問題文を往復して眺めていくうちに、どちらが本文と同じことを言っているのか、泰時は次第にはっきりと分かるようになっていったのだった。
一時間ほど経つとドアがノックされた。ドアを開けると、甘い香りがふわりと漂ってくる。盆にロールケーキと紅茶を載せた義時が立っていた。ワーカホリックの義時は土曜にしても在宅していることは珍しいのだが、今日は早上がりだったらしい。
「平六に土曜くらいは早く帰れと言われてな」
実朝がドアを振り返り、会釈をする。
「お邪魔しています」
「太郎がお世話になります」
義時と実朝は軽く挨拶し、義時が去ったのち、泰時と実朝は休憩することにした。
「いただきます」
「いただきます」
机上のテキストを片付けて、ロールケーキをフォークで切りながら、泰時は口を開いた。
「……つまり、こういう問題で、私の意見なんかは求められてないってことなのかな」
紅茶にミルクを入れながら、実朝が答える。
「そういうふうに思うと、つらくなってしまう。文章を誤解なく受け取る練習をしている、そういうふうに考えるといい」
話す実朝の眼は輝いていて、このひとはほんとうに文学が好きなんだなと泰時は思った。ロールケーキを頬張る。舌の上でふわりと融けていく生クリームを味わいながら、私もそういうふうに思ってみよう、と泰時は頷いたのだった。

 

しばらくして、冬の定期試験を迎える頃には、泰時は現代文がすらすらと解けるようになっていた。それはもう、面白いくらいだった。
「今まで、国語の問題って曖昧なもののような気がしてたんです」
実朝には学生の家庭教師に相応の謝礼が義時と比奈から出ていたが、泰時からもお礼がしたかった。そう告げると「では、私の好きな場所に一緒に来てくれるだろうか」と実朝は少しはにかんだような笑みを浮かべて言った。そうして今は、鎌倉の文学館に向かうため横須賀線に揺られている。
泰時は言葉を続けた。
「いくらでも解釈の仕様があるんじゃないかと思って」
「うん」
「違ったんですね。正解はあるんだ。自分と違う人間の考えを、受け取ることができるんですね。文章で」
「答えのある問題が正確に立てられていれば、正解はある。四択の試験問題には」
含みのある言い方だった。
泰時は実朝の顔を覗き込む。
「四択の試験問題には、」
首を傾げる泰時に、実朝は微笑んだ。
「誤解や誤答はあるが、読むことはもっと自由だ。行こう、太郎」
電車がプラットホームに滑り込んだ。実朝は泰時の手を取って立ち上がる。泰時は緑のマフラーを巻いて、二人は車両を下りる。改札を出て江ノ島電鉄に乗り換え、いざ、鎌倉へ。