レッスン・2

 ※神永とリピアー(人間体)のみ
※リピアーが禍特対にジェンダー・セクシュアリティの本を紹介される話の続きです
※独自設定多数
※神永とリピアーはいっしょに暮らしてます
※神永のプライベートでの一人称を暫定的に「俺」としています
※キスと抱擁程度の性描写があります R-13

神永は以前暮らしていた部屋を引き払って、少し広い部屋に引っ越している。リピアーが神永とともに生活することを望み、神永もそれを望んだからだ。以前の神永は、自宅を眠れればいい場所としか認識していなかった。現生人類の男性体を取るリピアーと暮らすには、以前の部屋は狭すぎた。
神永新二は公安部に勤務していた頃も、それ以前も必要最低限の私物しか置いていなかった。リピアーと暮らすこの部屋には、家具が多い。リビングのローテーブルとソファとテレビもそうだ。自ら進んでリビングのようなスペースを有する部屋に住むとは、今までの神永には考えられないことだった。神永も自身の変化を意外に思っている。けれど、戸惑いよりも楽しいような気分が勝る。
この部屋を見つけて引っ越しを終えるまでの1週間ほどは、ホテル住まいだった。本部からさほど離れていない八重洲に班長が用意した部屋に滞在していた。その部屋にソファとテレビがあったのだ。それでこの新しい部屋にもローテーブルとソファとテレビを置くことにした。
食後にソファに並んで腰かけ、コーヒーを煎れて、その日あったことを話す。話さなくても、隣にいる。その時間が神永は好きだった。リピアーは本を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたするのが好きなようだった。リピアーの隣に腰かけて、神永も本を読む。同じ映画を観る。音楽を聴く。リピアーが質問を投げかける。神永は答えて、わからないことは二人で調べる。ときおり顔を上げて、リピアーのきらきらとした瞳をひそかに見つめる。目に入るなにもかもが新鮮で驚きに満ちている、そんな眼差しが、神永には眩しい。
「神永、身体を融合していない現在、私はきみの記憶にアクセスできない。キスを唇以外にすることがあるのか? これも身体接触によるコミュニケーションなのか?」
リピアーが訊ねてきた。彼人はソファに深くもたれ掛かることはなく、背筋を伸ばしたまま、テレビ画面を注視している。放映されているのは神永も子どもの時分に観たことのあるアメリカ映画だ。今になってテレビで放送されるのは少し珍しいといってよかった。
フィルムの濃い色彩が、神永に懐かしさを喚び起こす。
ベッドに横たわった子どもに、母親が「おやすみ」と告げて、頬に口づける場面だった。
「ああ。キスは唇以外にもするし、これも身体接触によるコミュニケーションだ」
「浅見君のような?」
「個人的には、あれは少しやりすぎだと思う。接触に対する感覚は文化圏、親密さ、個人の感覚も関係するから、同意を取らずにするべきではないんだ」
「親密さイコール身体的接触の許可ではない、ということだな。私は今日学習した」
「就寝前のキスは、洋画では観るが、あまり日本ではメジャーなコミュニケーションではないかもしれない。いや、ごく私的な関係性の間で行われるものだから、俺の観測範囲だが。正確なことは…」
「私は昨日、班長に失礼なことを言ってしまった。きみにも、浅見君にも。私は現生人類のコミュニケーションについて、もっと学ばなくてはならない」
「失礼…?」
リピアーは神永に向き直り、言葉を継いだ。
「きみと浅見君が異性愛の関係にあるのかと」
神永は「ああ、それで」と納得したものか、「俺が好きなのは君だ」と返事をしたものか数秒間迷い、結局前者を選んでソファに背中を預けた。真新しい布張りのソファは、弾力をもって神永の体重を受けとめる。
今日の禍特対本部のリピアーの机上には、うずたかく性教育やジェンダー・セクシュアリティ論、社会学、ジェンダーSFの書籍や論文が積まれていたの。リピアーは驚くべき速度でそれらを読み、消化していった。昨日神永と浅見は本部を不在にしていたため、何があったのか分からないが、昨日何かあったらしい。船縁と滝にははぐらかされたが、今日の昼休みに班長とリピアーが二人で話していた。「班長、すまなかった」というリピアーの声を聞いたような気がした。
リピアーは神永を真っ直ぐ見つめている。
「神永、すまなかった。明日浅見君にも謝らなくては」
「リピアー、俺は」
神永はソファから上半身を浮かせた。浮かせてから、言葉を探し、数秒間逡巡して、口にした。
「デミセクシャルなんだ」
「デミセクシャル。深いつながりを持った相手に恋愛感情や性的欲求を抱く。ジェンダーにはとらわれないことが多いセクシュアリティである、ということか」
「そうだ」
「それは、……、」
「俺が深い絆を感じているのは君だ」
神永もリピアーに向き直っている。リピアーの背筋がかすかに動く。神永は手を伸ばして、リピアーの肩に触れようとしたが、たった今の自分の言葉を思い出した。「同意を取らずにするべきではない。」
「リピアー、君に触れたい。もし、君が同意してくれるなら」
神永は自身の声が震えていることに気がついた。これまでの人生で、他人にデミセクシャルであると明言したことがなかった。口に出してから気がついた。まさか人生初のカミングアウトが、肉体と意識を共有したこともある外星宇宙人に向かっておこなうものになるとは。
「同意する」
リピアーは神永を見据えて答えた。危ういほど迷いのない口調に、神永は思わず息を吐く。
「……『触れる』の語義を具体的に言わなかった俺が悪いんだが、どこに何をするのか確かめてから同意してくれ」
「そうか。なるほど。『馬柵越し麦食む駒のはつはつに新肌触れり児ろしかなしも』か」
リピアーが突然和歌を引用した。馬柵越しに麦を食む馬のようにかすかに触れた、まだ誰も手を触れていない肌が愛しい、というような意味だろう。艶めいた歌だ。そのことにも、神永は驚いている。
「万葉集か?」
「そうだ。言語学習の際、広辞苑を参考にした。その『触れる』の語義のひとつに『男女が親交を結ぶこと』とあり、この歌が掲載されていた。私は昨日今日で『親交』が男女に限らないことを学んだが、班長の『選書が古く、偏っている』とはこういうことらしい。この場合の『親交』とは性行為を指すと考えられる」
直裁的に述べられて、神永は慌てた。
「そこまでしようとは思っていない」
「そうなのか」
「今はまだ」
「いずれはする、ということか?」
「俺はこういうことは手順を踏みたいし、つどつど同意を得なければならないと考えている」
「了解した。楽しみにしている」
聞き捨てならないことをあっさりと告げて、リピアーはかすかに微笑んだ。どうやら本当に楽しみにしているようだ。何をするのか分かっているのだろうか。班長と船縁、滝の選書を疑うわけではないし、リピアーが目を通したからには書籍や論文の内容はすべて頭に入っているに違いないのだが、誰も立ち入ったことのない無垢な新雪を前にしたようで、神永は戸惑う。
「では、今日は何をするんだ?」
「君とキスがしたい。さっきの映画のような」
「同意する。神永、きみは?」
「同意する」
神永はソファの上を躙り寄り、リピアーの隣に座り直す。神永の胸の鼓動は彼人に聞こえているのだろうか? リピアーはじっと神永を見つめている。両眸は好奇心に輝き、うすく笑みを浮かべている。神永は引き寄せられるように、頬に口づけた。ふっくらとした頬が神永の唇を受けとめる。肌の弾力にしたがって、神永はゆっくりと顔を離した。ほんの少し触れただけなのに眼の奥がつんとして、神永は、と鼻を鳴らした。囁くようにリピアーが顔を寄せてくる。神永の左頬に唇が寄せられて、キスを返されたのだとわかった。眼を見張る神永に、リピアーは
「神永、きみも『同意する』と……、私からしてはいけなかったのか?」
少し戸惑ったように眉を寄せた。神永は慌てる。
「ああ、言ったとも」
狼狽はすぐに、波のような喜びで押し流された。「君が俺に触れてくれて、嬉しい」
胸にあたたかい感情が満ちて、神永はそれに身を委ねる。「君を抱きしめてもいいだろうか」、神永は訊ねる。リピアーが答える。
「同意する。私もそうしても?」
神永も答える。
「同意する」