宝石

二十面相は洞窟の通路に小さな人影を認めて、走り出しました。小柄な少年の姿は、二十面相の部下の誰にも似ておらず、小林君に違いありません。勇敢にも単身潜入してきた小林少年を捕らえ、牢に閉じこめていたはずですが、いつの間に脱出していたのでしょうか。小さな人影もハッと二十面相に気がつきました。敏捷に逃げだそうとしましたが、二十面相は素早く追いつきます。二十面相は人影の腕を掴んでしまうと、縫い留めるように壁に押しつけました。人影の正体は、やはり小林少年でした。二人の足音が洞窟の通路に響き渡り、消えていきます。二十面相は戦争中は防空壕として使われていた洞窟を改造して、ねぐらにしているのでした。岩肌には数メートルごとに、光度の抑えられたランプが取りつけられ、二人の長い影が伸びています。
「もう明智のところへ帰るつもりなのかい? 牢はお気に召さなかったのかね」
小林君はしばらく二十面相とにらみ合っていましたが、挑みかかるように微笑みました。
「少し退屈したから出てきてしまったんだよ」
「退屈か。それはすまなかったね。……見張りがいたはずだが」
「それは…」
小林少年が言い差した瞬間、
「お頭! 小林のガキが逃げました!」
と叫びながら、二十面相の部下の一人が走ってきました。小林少年の監視に当たらせていた当の本人です。男は鍵の束を持っています。
「……ン、どうしてお前、鍵を持っているんだ」
「へ、へえ。あっしのコレクションの話をしたら、小林がぜひ見たいと言うもんですから…」
どうやら小林君はそう言って、監視のいない隙に、万能かぎか何かを使って自力で牢を出たようでした。
叫び声を聞いて、一味が部屋からぞろぞろと現れました。
「バカッ。まんまと小林の口車に乗せられやがって」
べつの部下が怒鳴りました。二十面相はため息を吐きました。
「…まあいい。よせ」
二十面相はじろりと部下を黙らせました。
「小林君も、この衆人環視の中逃げきれるとは考えていないだろう」
「今はね」
小林少年の負けん気に、二十面相は愉快になって眉を跳ね上げました。小林君を押さえつけるのをやめて、腕を組みます。
「おい、自慢のコレクションを小林君に見せてやれ」
「お頭っ」
「いいんですかい」
部下が口々に尋ねますが、二十面相の気分は変わりませんでした。
「小林君、退屈のお詫びだよ。……お前も、コレクションを人に自慢したくてたまらないのだろう。土産代わりにお目にかけるといい」
「へえ!」
部下は嬉しそうに頷きました。自分が小林少年を取り逃がしたこともすっかり忘れている様子です。コレクションのこととなると隙だらけになるようなので、あとでこってり絞ることにして、二十面相も部下の部屋に同行することにしました。
また小林君に逃走されては面倒ですから、二十面相は少年の手首に手錠を嵌めました。警察に捕らえられたときのようで、あまり良い気はしませんが、もう片端の錠を自分の手首に繋ぎます。
「ふふっ」
小林少年は何を思ったのか、笑みを漏らしました。
「いつもと逆だね」
小林君は手首を挙げてみせました。小林君は子どもですし、小柄なほうですからずいぶんと手錠の輪が余って見えます。
「錠抜けでおれを出し抜けると思うなよ。……こっちだ、小林君」
二十面相は手錠越しに小林君の手を引きます。部下とともに、一味の群れを割って洞窟の奥へと歩き始めました。
その部下は宝石の知識にかけては二十面相も一目置くたいそうな目利きなのです。しかし、二十面相が標的にするような、百カラットもある王室に伝わる宝物や、一流の職人によって磨き上げられ加工された宝飾品には興味を示しません。泥棒仲間のなかでは、変わったやつでした。傷があったり、インクルージョンと呼ばれる内包物で曇っている鉱物を好んで蒐集しているのでした。コレクションのなかには、博物的な値打ちを持つものもありますが、ほとんどは盗んだとしてもさほど値のつかないものばかり、手当たりしだい集めているのです。
手下は割り当てられた部屋の前に辿り着くと、鍵でドアを開けて灯りを点けました。
「わあ……っ」
小林君が感嘆の声を上げます。確かに壮観です。薄暗い部屋の岩壁の壁じゅうに標本が飾られています。
「すごいなあ。これぜんぶ、きみのなのかい」
「へへっ。そうさ」
心底感心しているらしい小林少年に胸がざわざわして、二十面相は釘を差しました。
「自慢もいいが、ここが小林に知られたということは、いずれ警察が踏み込んで来るかもしれないぞ。引き上げる準備もしておけ」
「へえ……」
部下はしょんぼりと肩を落としました。とはいえ、鉱物のコレクション以外は二十面相の部下のなかでも私物の少ない方です。ベッドと机のほかに家具はありません。
机の上には照明とルーペ、そして鉱物が鑑別を行う宝石商のそれのように、裸のまま堆く積まれていました。
「これは水晶…石英? みんな石英なのかい?」
小林君が机に向かって移動しました。渋々二十面相もそちらへ行きます。少年は机を覗き込みました。
「よく分かったな坊主。そうさ。みんな石英だ」
男は満足そうに首肯します。
水晶は石英の一種ですが、無色透明で六角柱状の水晶以外にも、さまざまな種類があるのです。緑色の鉱物を含んで成長し苔むす庭を閉じこめたように見える苔入り水晶。紅水晶はまるで桃のような色をしています。妖しい日暮れの空のような紫水晶。無数の金の針が入ったような金針水晶。結晶のなかに結晶がある山入り水晶。淡い檸檬水のような黄水晶。緑色の縞模様をなす緑瑪瑙。茶色の縞模様をなす茶縞瑪瑙。これらすべて石英の一種で、部下のコレクションなのでした。
「あっ…これ、触ってもいい?」
男が許すのを待って、小林君は空いた手を机に伸ばしました。二十面相も仕方なくもう一歩、そちらに移ります。
小林少年が手に取ったのは、小さな結晶です。小林君のほっそりとした掌のために大きく見えますが、大人の男の小指の爪ほどの大きさでしょうか。一部は氷のように澄んでいますが、奥に黒いインクルージョンが沈殿して、夜が凝ったようです。また、べつの内包物の成分のために、底から表面に向かって泡が浮かんでいるようにも見えました。
美しく、神秘的な石でした。
小林君は掌にそれを載せて、二十面相を振り返ります。
「ね、二十面相くん。これ、きみみたいな石だねえ」
小林少年は微笑みました。
「きみはおれを、その石のように思っているのかい」
皮肉で返そうとしましたが、言葉が浮かびません。小林君が無数の鉱物のうちからたったひとつを拾い上げたこと、それが夜のように美しいこと、二十面相のようだと口にしたこと。
震えるような歓びでした。二十面相はわれ知らず浮かぶ笑みをこらえ切れず、喉をクッと鳴らしました。
「きみは……本当に……」
二十面相は以前、小林少年に尋ねたことがあります。
『おれがおれをわからなくなっても、つかまえてくれるかい』
『――どこまでだって、追いかける』
小林君の言葉はきっと嘘ではなく、自分を追いかけてかならず見つけてくれるのでしょう。
二十面相は手錠で繋がれた小林少年を見下ろして、うっとりと語りかけます。

「きみは相手にとって、実に愉快なんだよ」