方舟 4・0

白い構造体が、惑星と宇宙空間の間を秒速7.8メートルの速度で周回している。構造物の中央部分は十字型で、十字のそれぞれの端には金色の太陽光パネルが帆のように広がっている。中央部分は、観測と居住のために用いられていた空間だった。定員はわずか三名だが、代わる代わる訪れた宇宙観測官たちは、いずれも惑星の大国の英雄であった。
構造体は、かつて惑星の大国が威信を賭けて打ち上げた宇宙船である。
大国の政争が激化してから十年が経とうとしている。政府には、もはや地上の広大な国土と人口を支えることすら困難となって久しい。宇宙船の帰還作戦が幾度か立案されたものの、そのたびに立ち消えた。構造体には大国の技術の粋を集めて製造されており、また三人の宇宙観測官は多くの軍事的秘密を知っていたため、大国は他国の援助を拒み続けた。
燃え尽きかけた蝋燭の炎がひととき大きくなり、揺らめくように、国内にはプロパガンダと情報統制、その反動の批難の嵐が交互に吹き荒れた。宇宙船の環境維持機能はひとつ、またひとつと異常を来し、飛行士が最後のひとりとなったとき、もはや大国のほとんどのヒトは、宇宙船の乗員の存在を忘れていたのである。

ありったけの毛布をかき集めて被っているが、体温がどうしようもなく低下していくのを感じていた。当然のことだった。温度管理装置は壊れ、自給システムもダウンした。この十年、何度となく復旧を行ったが、今度こそ修復は困難に思えた。
最後の宇宙観測官である彼人は、栄養不足によりほとんど視力を失っていた。痩せ細り、震える指先で毛布をかき抱きながら、死の気配を間近に感じる。若い頃に胸を膨らませた国への忠誠や宇宙への憧れはとうに摩耗していた。そして、それらの代わりに、彼人は幼い頃に見聞きしたものばかりを思い出すのだった。
彼人の祖父は神を熱心に信仰していた。彼人は成長するにつれ、神の教えを非合理に、また蒙昧に思うようになった。祖父が長らく体調を崩していたことも、訓練中の死の報せでようやく知るほどだったのに、なぜか、近頃は祖父の声がよみがえる。暖炉の薪のはぜる音、薪の匂いとともに、
彼人は腕を使って、這うようにして構造体の中央部分に進んだ。数層のガラスに隔てられた向こうに、惑星が見えるはずだった。今の彼人の視力では、仄青い光源のようなものを感じ取ることしかできない。
白くなり、伸びきった髪の向こうで、ぼう、とヒトのかたちをした「何か」が浮かび上がった。
栄養失調か孤独による幻だと彼人は思った。声を出そうとしたけれど、かすれて言葉にならなかった。かわりに彼人は、青ざめてひび割れたくちびるでほほ笑んだ。死ぬことは怖くなかった。地上では打ち上げの危険性に緊張こそすれ、このような結末になるとは考えていなかったが、宇宙観測官の任務は元来危険なものだ。そして、このときがいずれ来ることは惑星との連絡が途絶し始めたときに想像していた。迎えがないということは、誰もわたしたちのことを覚えていないということかもしれない。あるいは故意に、見捨てられたということかもしれない。
それでも、今まで生き延びることができた。わたしはそれでいい。
彼人は先に死んだ二人の乗組員の最期を思う。地上400キロメートル。きっとここは地上のどこよりも神に近い場所だろう。きっと天国には仲間たちが待っているはずだ。死ぬことを怖れる必要はない。 けれど、心細さも確かに存在するのだった。
彼人は毛布から「何か」に向かって手を伸ばした。手を握ってほしかったのだ。
「何か」は彼人に応えるように手を取った。あたたかくもつめたくもない、ふしぎな感触だったが、自分たちとよく似た指先のように彼人は感じた。
指先を握られたような気がした。
「神さま……」

 


 

私とリピアーは宇宙観測機関である構造体の内部、眼下に惑星を望む居住エリアに佇んでいる。循環システムを含めた生命維持装置のあちこちが故障しており、内部はひどく寒く、酸素も希薄であるため、私たちはウルトラマンの姿をしている。
私とリピアーは文明が滅亡した惑星の観測任務を終え、大気圏を飛んでいたところ、構造体に生命反応を発見したのだった。惑星の地上は大国の政争に端を発した混乱が原因で、たった数年前に知的生命体が滅んでいた。

私たちは彼人の手を握っている。
たったいま生命を失った肉体が、無重力空間に浮遊している。

ウルトラマンは神ではない、とは、私もリピアーも言わなかった。