マスカット・オブ・アレキサンドリア

「暑い」
この季節、半ば口癖のようになっている言葉を、サトルははっきりと、一人の人物に向かって発した。その人物は黒いシャツに黒いズボン、黒い革靴といういでたちをしている。
つまりサトルは「暑苦しい」という文句を込めて口にしたのだが、意図が伝わったのかどうか。その人物、メフィラスは日焼けなど知らないかのような白い貌を傾けてにっこりと微笑んだ。
「おかえりなさい、サトル君。今日こそ地球を『あげます』と言う気になったかな」
「言わない!」
言い放ち、メフィラスの横を通りすぎようとしたサトルに、メフィラスは言葉を継いだ。
「サトル君。アイスが食べたくはないかい」
メフィラスが立っていたのは、コンビニエンスストアの看板の真下だった。サトルは理解した。待ち構えていたに違いない。今日は夏休みに入って十日目の登校日で、今はその帰り道だった。
喉はからから。水筒も空っぽだ。
「アクエリアスも買っていい?」
「もちろん。ハーゲンダッツでもいいよ、サトル君」

サトルとメフィラスは近くの公園のベンチに並んで腰かけて、ビニール袋をガサガサと開けた。
サトルがメフィラスとはじめて出会ったのはこの公園だ。サトルの住む団地からは少し離れたところにあり、とくに昼過ぎにはサクラの樹の日陰になる青いベンチはとっておきだったが、メフィラスとここで会うのは久しぶりだ。サトルが夏休みに入ったからである。しかし、メフィラスはどうしてだか、サトルが母親に連れられて出かけた郊外のショッピングモールや、父におつかいを頼まれた先のコンビニエンスストアに現れて、例の言葉を繰り返すのだった。「『地球をあなたにあげます』と言ってごらん」。
サトルがそれに頷いたことはない。
「ハーゲンダッツじゃなくて良かったのかい、サトル君」
「うん? うん」
サトルはちょっとだけ照れくさくなって、ぶっきらぼうに答えた。ビニール袋から購入したパピコを取り出して、ぱきん、と割ってメフィラスに突き出すように渡す。
「……これを私に?」
「マスカット味。好きじゃないならおれが両方もらうけど」
「いえ、いただきます。新商品かな」
「そうだよ」
サトルは器用にパピコの口をひねって開け、口に含んだ。コンビニから公園までのわずかな距離でパピコは少し溶けかけている。マスカットの甘く、爽やかな味がする。
「メフィラスって、暑さ感じたりしないの」
メフィラスもサトルに倣って倣って封を開け、パピコをいくらか啜って答えた。
「熱さを感じる機能はあるけれど、摂氏三十度から四十度程度の外気温は、私にとって危険ではないからね」
「日焼けもしないみたいだし」
サトルはメフィラスを見上げた。メフィラスの白い貌は、木漏れ日というには強い真夏の日差しを浴びている。その貌も緑色のパピコを持つ手も、日焼けなど知らないかのように白い。
「不自然かな」
「ちょっとね」
「サトル君は日焼けしたね」
「まあね。夏だからね」
サトルはパピコを食べながら、ベンチから投げ出した足をぶらぶらさせる。多少行儀の悪いことをしても自分を叱ったりしないというのは、サトルにとってメフィラスが気安い理由のひとつだ。
とはいえ、サトルはメフィラスを心安くは思っているが、信頼したことはないのだった。隙あらば「『あなたに地球をあげます』」と言うように微笑んで迫る宇宙人なんて。「どこの星にだって連れていってあげる。永遠の命もきみのものだ」うまい話ほどあやしい、とサトルは思っている。
「……暑いなぁ」
サトルはしゃりしゃりとパピコを噛み砕いて、呟いた。
「暑いねえ」
メフィラスもパピコを食べ終わったらしい。真っ黒いシャツで包んだ背中をベンチに凭れさせて、汗ひとつかいた様子もなく、しゃあしゃあとした顔をしている。
「心にもないくせに」
「ははは」
「そういえばあれってさ、心にもなくてもいいの」
「『地球をあなたにあげます』と言う気になったかい?」
「絶対言わない」
同じ暑さを感じているわけでもない。同じ味を感じているわけでもない。けれど、一本のパピコを分け合って食べている。