R-13
メフィラスはいささか唖然として、立ち尽くしていた。どうしてこうなったのだろう?
メフィラスは首を傾げて部屋を見回す。
原生地球人類が「団地」と呼ぶ、規格化された集合住宅の一室である。右手の前方には、開閉するたびにきいきいと音をたてるスチール製の扉と玄関。玄関の隣には冷蔵庫が設置されており、さらにその隣には台所が据え付けられている。玄関に近いほうから調理台、シンク、二口コンロが並ぶ。コンロの下の収納、観音開きの戸は開かれたままだ。
戸に備えつけられた包丁差しから、一本の包丁が抜き取られている。
メフィラスの左手には大きな窓とダイニングテーブルがある。窓はベランダに面していて、窓のカーテンがぴっちりと閉じられている。
ダイニングテーブルはダイニングキッチンの面積の割に大きい。四脚ある椅子のうち、一脚の座面の上にはバスケットが置かれ、書類や市販薬、テレビやエアコンのリモコンなどが突っ込まれている。テーブルの上を、電気ポットとティーバッグの箱、インスタントコーヒーの瓶や、調味料が無造作に占領している。メフィラスの背後、ダイニングの隣はテレビのあるリビングで、さらにその隣には二部屋の寝室が続く。寝室のうち片方の扉はごく細く開いている。サトルの部屋に続く扉だ。
いくら小柄な原生地球人類といえど、数名が暮らすにはやはり狭すぎる、とメフィラスは思った。そのせいでモノが溢れているのだ。食事を摂るためのテーブルの隅が、紙の束で侵食されているのが象徴的だ。
もっと快適な住環境を提供できるのに、とメフィラスは考える。
「地球をあなたにあげます」と言いさえすれば無限の空間とて思うままになったのに、サトルはそれを固辞した。
もっとも、メフィラスにはサトルのそういうところが面白かったのだ。ほかの人間のようにたやすく欲望に押し流されるようであれば、きっとメフィラスはサトルの名前を記憶することもなかった。極小ゆえに雑然とした住居にも、サトルの生活を感じれば興味を持つ。メフィラスはサトルに友情を感じていたのだった。
メフィラスは木目調の床材の貼られたダイニングキッチンとリビングの間の敷居を、跨ぐようにして立っていた。二部屋とも、床には血溜まりが広がっている。
二週間ほど、メフィラスは本星との連絡のため宇宙船に籠もっていた。サトルが体調を崩したのも二週間ほど前のことだったらしい。サトルは熱と頭痛を訴えて学校を早退し、小児科では風邪と診断された。数日分の薬を与えられ、医師の言いつけどおり自宅で休養を摂っていた。それでもサトルの熱と頭痛は引かず、しかし、風邪と診断されたのだからと病院に罹ることを先延ばししているうちに、――よく会う公園にサトルが現れないことにメフィラスが気がついた頃には、サトルの脊髄はウイルスに冒され、脳と心臓は活動を停止していたのだった。
メフィラスは小児病院から自宅に送られたサトルと融合した。原生地球人類の死体は腐りやすく、温暖湿潤な気候と地域であったため、メフィラスには時間がなかった。腐敗が進行するまでに開始しなければならず、事前に人体に関するより精確な情報を得ることができなかったため、メフィラスは内部から、半日ほどの時間をかけて、サトルの肉体を回復させた。
扉越しに、「友引を避けて通夜は明日行う」というサトルの父母の会話が聞こえた。
メフィラスは熱やウイルスで損傷を受けた脳や脊髄、体組織を修復し、体温を調整した。そしてサトルの瞼を開き、メフィラスは目覚めたのだった。
メフィラスはサトルの部屋の天井を見た。サトルは薄く、白いつやつやとした着物を着て、布団の上に横たえられていた。
メフィラスはサトルの肉体の上半身を起こした。
メフィラスは部屋を出て、サトルの両親に声をかけた。
「私はサトル君の友人です。私はサトル君の肉体と融合しています」
サトルの父と母は恐慌を来し、メフィラスに――サトルの肉体に刃物を持って襲いかかった。メフィラスは対処した。それだけのことだ。
メフィラスは血の海を、玄関に向かって歩く。白い靴下に血が染みて、這い上がっていく。
殺すつもりはなかったが、殺意を持って向かって来たのだかたしかたがない、とメフィラスは考えている。メフィラスにとって興味の対象はあくまでサトルであり、その父や母はとりたてて関心の対象ではない。いや、メフィラスは少し腹を立てていたのだった。地球人の制度において保護者とは、児童の養育に責任を有する立場であるはずだ。なのに、サトルの両親は責任を果たさず、軽度の感冒であるとたかをくくって相応しい治療を受けさせず、サトルを死なせてしまったのだ。
想定外の事態だったが、当然だとメフィラスは自己の判断を評価する。ふむ、とメフィラスは頷く。その声は予想よりも高かった。地球の自転周期で二週間ぶりに聞くサトルの声が自分の意思で発されたことを、ひどく不思議なことのようにメフィラスは感じた。
視界も二メートル近いメフィラスの外星人態より、ずっと低いのだった。
「ふふ」
メフィラスは微笑んだ。自分の笑い声がサトルの笑い声であることが、愉快だった。サトルはいちど心停止してしまったが、いまはメフィラスが笑えばサトルも笑うし、メフィラスが右手を動かせばサトルの右手も動く。メフィラスが見聞きしているものを、サトルも見ている。
メフィラスは血の池を歩き、数歩の距離のダイニングから狭い玄関に下りる。並んだ地球人の履き物のうちでも最も小さな一揃い、サトルのスニーカーを履いた。血の染みた靴下が、びちゃ、と音をたてる。足の裏に感じる濡れた感覚も新鮮だった。
メフィラスはドアノブを回して家を出る。
これがサトルの生存でなくてなんだというのだ? メフィラスの足取りは軽かった。
「それは、きみではなくきみの中にいる人間の心ではないのか? ウルトラマン」
メフィラスの言葉に、ウルトラマン――原生地球人類と融合した光の星のヒトは、手にしていたガラスの盃をカウンターに置いた。盃は割れはしなかったが、酒の表面が激しく波うっている。メフィラスは肩をすくめる。怒らせるつもりはなかった。メフィラスは続けて口にする。
「私も一人の人間と融合しているんだ」
あれから三十年。
サトル君は何も答えてくれないが、私の眼も耳も手も心臓も、あの子のものなんだよ。
元ネタはフォロワーさんより。かなりべつものになってしまいましたが、ありがとうございました。