シェルター・ユー

※転生クモKK 独自設定が数多くあります
※クモ先輩(来世含)が抑圧を受けた同性愛者という描写があります


僕と先輩は、よく待ち合わせやデートに用いる喫茶店にいた。カフェではなく、純喫茶と呼ばれるような店構だ。
表通りから一本入った路地の雑居ビルに、突き出し式の看板が出ている。看板は白地に古い装飾書体で店名だけが記されている。看板の下の階段を下りた先には、ステンドグラスの嵌まった凝った造りの木製のドアがあり、ドアをくぐるとこの店だ。それほど大きなビルではないし、ドアをくぐってすぐにカウンターがあり、こぢんまりとした印象を与えるが、店内は意外と奥行きがある。カウンターにいるマスターからは一番奥のソファ席の会話の内容は分からないだろう。聴力を強化されたオーグメントでもないかぎりは。僕と先輩はだいたいこのソファ席に陣取って、話をする。およそこのソファに先客がいることはない。というか、ほかの客も少ない。オフィス街だから、周囲の飲食店はチェーン店以外店を開けていないところも多い。客もないのに、店を開けているのが不思議なくらいだ。店内にはかすかに酸味を含んだほろ苦い珈琲の匂いが漂い、レコード音源のジャズが流れている。サックスの音。マスターが趣味で経営しているんだろうかと、僕は勝手に想像している。
僕をこの店に連れてきてくれたのは先輩で、「気に入った店はすぐにつぶれてしまうんです」と残念そうに言っていた。ですよね、と僕は答えた。大通りに面しておらず、落ち着けるということは客が少ないということだ。どうやら穴場らしい、先輩のお気に入りを教えてくれたことが、僕には嬉しかった。先輩のプライベートな面を見せてくれたみたいで。
けれど、今日の先輩は、僕がこの喫茶店のドアをくぐって姿を見つけた瞬間から、なんだかずっとそわそわしていていた。ノータイの、黒いジャケットにスラックスといういでたちで、唇を引き結んだかと思えば指を組んだり、何か僕に言いたいことがあるらしかった。
もしかして、別れ話だろうか。悪い想像が止まらなくなくなってぐるぐるする。
僕と先輩がオーダーしたケーキセットがそれぞれテーブルの上に並べられるなり、足を組み直して口を開いた。
「私もそろそろいい年ですし、やりたいように生きようと思いまして。着ぐるみを着ようと思っています」
「えっ」
「きみにデザインを依頼したいと考えています。もちろん、報酬はお支払いします。親しき仲にも礼儀は必要ですからね」
好きなように生きるって。着ぐるみって? 訝しげな顔をしているのだろう僕に、先輩は言葉を接いだ。
「この歳まで私は私として生きてきましたが、クモオーグのマスクのような仮面や外装が欲しいと言いますか――この世と一枚隔てたいという願望があるのです。スーツでは、心許ない」
「はい」
先輩はまじめな顔をしている。僕も先輩から眼を逸らさず、クライアントにするように、いやもっと真剣に、隣のソファに置いていた鞄からペンケースとスケッチブックを取り出した。
分かる気がした。僕はもうK.Kオーグではないが、あの仮面が恋しいと思うことはある。たまらなく。
先輩も、そういう気持ちなのだろうか?
僕はケーキセットをどけて、スケッチブックを膝の上にひろげる。先輩がふふ、と喉を鳴らした。
「いえ、しっかりやっているのだな、と思いまして」
「ひどいですよ」
僕は肩をすくめる。
「これでも、フリーランスのデザイナーとして食ってるんですよ」
「知っています。信頼しています」
「まあ、実態は下請けの何でも屋って感じですが」
僕はペンをくるりと回す。
「イメージはありますか? ふんわりとでも。…やっぱり、蜘蛛ですか?」
「ええ、蜘蛛です」
訊きかけた僕に、先輩は静かに指を組み直して、語る。
「そして、イメージとして、『シャイニング』に出てくる着ぐるみのような、エッセンスを足してほしいのです」
「…映画のなかで、前の支配人と、こっちを見てる?」
僕は首を傾げる。
「そうです」
先輩はケーキのあたりに視線を落とす。
「私は子どもの頃、自分のようなセクシュアリティの人物を映画に見つけることはなかなかできませんでしたから」
「かなり不気味に描かれる場面ですよね」
僕は『シャイニング』を思い出して、その場面をざっくりとスケッチブックに描く。ホテルのかつての支配人と、犬の着ぐるみを着た男性がじっとこちらを見つめている。主人公のジャックが遭遇した女性の幽霊のように腐乱しているわけではないのに、印象に残るのはどうしてだろう。かなりゲイフォビアな感じもする。
「『シャイニング』自体ホラーですけど」
「怖いから、不気味だから良かったのかもしれません。私は受けている抑圧の分、怖がられたかったのかも」
僕は手を止めて、先輩を見つめる。
「それは、オーグってことですよね」
「ええ。そうです」
先輩はそこで一度言葉を切る。
「そうなのです、結局のところ。しかし今の私に必要なのは殺すためのものではなく、生きるための外装なのです」
「なら、」
僕は身を乗り出す。
「絶対いいものにしましょう!」
先輩は漏れ出たような笑みを零した。さっき、「しっかりやっているのだな、と思いまして」と口にしたときの表情だ。
「ええ、よろしくお願いします」
先輩が頭を下げたので、僕も慌ててお辞儀する。先輩が笑うと目尻に皺が刻まれる。その様子は紛れもなく人間のものなのに、礼の上品さはクモオーグとしての先輩と変わっていなくて、僕は戸惑う。この違和感をデザインに落とし込むにはどうしようかと、僕は考えている。