密会 前編

「おれはきみを知るし、きみもおれを知る。きみはおれを知るほど、おれを追いかけやすくなるだろう」
だから、デートをしよう小林君。
怪人二十面相はそう言って、小林少年の耳に唇を近づけました。
「おれがきみを知るほうが深かったなら、おれがきみを撒きやすくなるだけかもしれんがね」

果たして、約束の日は訪れました。場所は銀座の百貨店の高島屋の東口、時間は午後一時です。小林少年は時間通りにやって来たその姿を眼にして、アッと声を上げそうになりました。
「先生…?」
待ち合わせに現れたのは、明るい灰色の背広にモジャモジャの髪、明智小五郎その人の姿をしていたからです。
小林少年が呆気に取られていると、その人は機嫌良さそうに微笑しました。
「……帰る、」
くるりと踵を返した小林君の肩を、その人――明智探偵の姿をした怪人二十面相が掴みました。
「お気に召さなかったのか。きみが喜ぶと思ったんだが」
二十面相が少し落胆した様子だったので、小林少年は妙な気持ちになりました。明智探偵の扮装をした二十面相を眼にしたときは、胸がもやもやして(いやだ)と思ったのですが、どうしてだか自分でもよく分かりません。二十面相がほんとうに、自分を喜ばせたかったのなら無碍にするのも悪いような感じがします。小林君は、言葉に詰まってしまいました。黙って俯く小林少年を励ますように、二十面相は小林少年の手を引いて歩きだしました。
「この姿なら君と歩いていて咎められることもないからね。おいで、小林君」
二人は真鍮の大扉をくぐります。百貨店の吹き抜けは豪華な装飾が施されて、さながらオペラ座のようです。ダンスホールのように広々とした一階は臙脂色の絨毯が敷かれ、婦人用品が販売されていました。扉の近くは服飾雑貨売場で、ショーウインドーに帽子やショール、日傘や扇子や、手袋が陳列されています。色硝子の小瓶の並ぶ香水売場を抜ける次は化粧品売場です。女性店員が香りつきの白粉を婦人に薦めていました。
二十面相は小林少年の手を引いて、エレベーターに乗り込みました。客たちが同乗してきて、エレベーターの匣のなかはたちまち人でいっぱいになります。乗客たちはめいめいに目的階を告げ、
「五階」
二十面相も短く言いました。エレベーターガールが挨拶を述べて、匣はゆっくりと動きだします。ふわりとした浮遊感とともに、小林少年はふと眩暈に襲われました。真昼の百貨店を、明智探偵に変装した二十面相とともに訪れていることの奇妙さのせいだと思いました。小林君は百貨店に来ることははじめてではありません。明智探偵のお供をしたことも、文代婦人のお供をしたこともありましたが、今日はなんだか落ち着かない気持ちでした。
エレベーターは二階から順番に停止していって、とうとう五階に着きました。五階は子供服売場でした。二十面相はエレベーターを降りると、目の前にあるマネキンの前で立ち止まりました。
「そのマネキンの外套(コート)、きみに似合うんじゃないか。背格好も同じくらいだろう」
「どういうーー」
「おい、君。あの外套をこの坊やに羽織らせてやってくれないか」
二十面相が店員を呼びました。店員はてきぱきとマネキンが着ているのと同じ紺色の外套を持ってきて、小林少年の背中の後ろで広げました。小林少年が羽織ってみせると、店員は姿見を運んできて、
「とてもすてきですよ」
とニコニコしています。
「ああ、似合うじゃないか」
きらきらと光る銀色の釦の、仕立てのいい外套でした。子供服売場には、文代さんに連れて来られたことはありましたが、服を着たところを二十面相に褒められるとは思ってもみませんでした。小林少年がなんだか恥ずかしくなると、鏡のなかの外套の少年も頬を染めるのでした。
「シャツの調製もしようか。うんと豪華なやつがいい」
「ま、待って。高価(たか)いんじゃないのか」
「買ってやるよ、子どもが金の心配なんかするもんじゃないぜ」
店員は小林少年と二十面相を、調製室(オーダースペース)へと案内します。調製室の壁には絹や綿ブロード、麻、サテンなどさまざまな布が並べられていました。店員は二十面相にオーダー資料のファイルを手渡しました。ファイルにはオーダーに使える釦も綴じられています。二十面相はファイルに綴じられた釦を外して小林少年の顔に近づけて、眼を眇めました。
「ふうん。小林君、黒蝶貝も似合うじゃないか。白蝶貝は言うまでもないが。選べないな。二枚仕立ててもらおう」
「上等な釦で仕立ててもらっても、ぼくはきみを追いかけてシャツを汚してしまうよ」
「じゃあ、きみの着飾ったところをおれが拝むのは貴重ってことだね。よくよく眺めておくよ」
シャツの採寸が済んでも、二十面相は目についた服を示しては、
「あれはどうだ」
「あっちもかわいいんじゃないか」
と店員を呼び、そのたびに羽織らされたり、試着室まで行って着替えさせられたりするものですから、小林少年はすっかり疲れてしまいました。二十面相を尾行したり、事件を調査したりすることはなんでもないのですが、試着をたくさんすることには慣れていません。
「小林君。甘味でも食べに行こうか」
二十面相が苦笑いして呼びかけました。疲れているのを見抜かれているようで癪にさわりましたが、甘いものを食べたくなっていました。二十面相は購入した服を明智探偵事務所に送るよう店員に申しつけて、喫茶店に小林少年を誘いました。

喫茶店のテーブルに通され、椅子に向かい合って座ります。小林少年はグッタリしながらメニューをめくりました。写真つきのプリンアラモードが目に留まり、小林少年は二十面相を上目遣いに見つめました。二十面相はさっさと注文を決めてしまったようで、自分のぶんのメニューをわきに置いて、椅子の背もたれに背中を預けています。
店員が注文を訊ねにやってきました。二十面相はブレンドコーヒー、小林少年はクリームソーダを注文しました。
店内は焙煎されたコーヒー豆のかぐわしい香りと、レコードのゆったりとした管弦楽が流れています。
やがてクリームソーダが運ばれてきました。緑色のソーダ水に、満月のような黄色のアイスクリームが載っています。小林少年はなんとなく気恥ずかしくて、コースターごとグラスを引き寄せて、サクランボを早口に摘んで食べました。砂糖漬けのサクランボはとても甘く、小林君はソーダにストローを差して喉を潤しました。
二十面相は愉快そうに小林少年を見下ろしています。
「きみ、なんだってそんなに楽しそうなの」
小林少年が質問すると、二十面相はフッと微笑みました。
「きみは明智と一緒のときはコーヒーをよく飲むだろう」
「……よく知ってるね」
二十面相には気づかれたくないことだったので、小林少年はストローから口を離して眼を逸らします。
「先生はコーヒーがお好きで、家ではよくコーヒーをお飲みになるし……明智先生や少年探偵団のみんなの前では、子どもっぽいと思われるのが、いやなんだ」
二十面相は愉快そうな顔をして、小林君を見つめています。
「おれに子どもっぽいと思われるのは、いいのかい」
小林君は二十面相を睨んで、負けじと言い返しました。
「さあ、ぼくはきみを油断させるつもりかもしれないよ」
「ハハ。かわいいところが拝めたから、よしとしようか」
二十面相が笑うと、ちょうどコーヒーが運ばれてきました。さきほど注文したブレンドです。二十面相は砂糖をひと匙と、ミルクを少々入れました。小林君は、これが二十面相の好みなのかしらと思い、もう一つ、気になっていたことを訊ねました。
「ね。さっき、ぼくに着せかえをして板だろう。きみにはあれが楽しいの?」
「そうだな。楽しいよ」
「そういうのって、女の人だけだと思ってた」
二十面相はコーヒーを一口飲み、答えました。
「明智の細君か?」
「そう。文代さんも、デパートにぼくを連れてきてくれる」
「ひとを着飾らせて楽しいのは女ばかりとは限らんぜ」
小林君は首を傾げます。
「そうなのか…」
確かに、思い当たることはある気がしました。
二十面相は背もたれに背中を預けて、続けます。
「きみはかわいいからな。かわいいってのは、愛す可きってことだ。明智も文代さんも、少年探偵団の小僧らも、チンピラたちも、みんなきみのことが好きなのさ」
小林少年は、真っ直ぐに二十面相を見据えて、訊ねました。
「……きみも、ぼくのことが好きなの?」
二十面相は笑みを浮かべました。喫茶店の中に漂う、焙煎されたコーヒー豆の匂いよりも苦いような笑みでした。
「…一度となく、おれはきみに言ってるぜ。きみがかわいい、すきだって」
「ぼくが今言ってる好きと、きみが言ってる『好き』はちがうよ」
二十面相は眼を眇め、射すくめるような眼つきになりました。小林君はたじろがず、ジッと二十面相を見上げています。二十面相は薄く微笑んで身を乗りだし、腕を伸ばしてきました。喫茶室のテーブルは小振りですから、大人は簡単に手が届くのです。二十面相は小林少年の黒髪に触れ、こめかみを撫でました。
「違うかどうか、確かめてみるかい?」