これは愛だと彼は言った

原作映画程度には満たない程度の残酷描写があります。


 

どうしてぼくがクモ先輩をお慕いするようになったか? わざわざ訊くことじゃないだろ。先輩は強くて美しくて格好良くて有能で大胆で仕事がおできになって、S.H.O.C.K.E.R.への忠誠心が厚く、同胞にお優しくて茶目っ気もあっておかわいらしい一面もあり……とにかく最高のお方なんだから。それでもどうしても訊きたいって言うんなら、答えてやらないでもないけど。よく聞けよ。
あれはぼくがまだ下級構成員だった頃のことだった。きっとクモ先輩は覚えていらっしゃらないだろう。ぼくは下級構成員の覆面をしていて、埋没した存在だったから。
ぼくはほかに二人の構成員とクモ先輩の言いつけで、本部と先輩の間の連絡を取り持つ任務に当たっていた。定時連絡は3時間毎に行うことになっていた。13時のことだったと記憶している。ぼくを真ん中に二人の構成員が立って、報告を開始しようとすると、先輩は仰った。
「20秒の遅刻です」
ぼくは支給品の、左腕の腕時計を確認しようとした。長針は12時59分30秒を過ぎたところだった。右隣の構成員が顎を上げたのが視界の隅に見えた。反発をしようとしたのだろうと思う。何か黒いものが前方から伸びてきた。クモ先輩の複腕だった。クモ先輩の肩から上方の二本の腕が悪魔の羽のようににゅっと伸びて、ぼくの右隣の構成員の首を左右から摑んだ。その構成員が震えながら宙に浮くのを、ぼくは息を呑んで見つめていた。構成員の呼吸が次第に弱まっていくのを聞いていた。体は数回痙攣し、頭と両手両脚ががくっと弛緩したように垂れ下がった。死んだ構成員の体を、先輩は興味を失ったみたいに、軽く放り投げた。死体は数メートル吹っ飛んだ。これがオーグメントの力、と思ったのを覚えている。
「さて、」
クモ先輩がこちらを向き直った。ぼくも左隣の構成員も、言葉を発することができない。ヒト一人を軽く扼殺して、ゴミみたいに投げることのできる圧倒的な力。ぼくは怖ろしくて、何て先輩は美しいのだろうと思って、震えが止まらない。
「じっと見ているだけ、というのは感心しません」
先輩が一歩、また一歩と近づいてくる。先輩の頭部、蜘蛛の脚を模ったドレッドが揺れる。先輩の額にある赤いランプと目許の緑色のランプが光り、ぼくはその輝きに魅入っていた。蜘蛛の巣に捕らわれた獲物って、きっとあんな感じだろう。じじ、と先輩の赤と黒のうねるような縞模様のジャケットのポケットのジッパーが開く。そこから現れた腕がぼくの左腕の構成員の腰を掴み、上方の二本が頭を、中ほどの二本の左腕が首を引っ摑んだ。目にも留まらない速度と勢いだった。
「がっ」
と左隣の構成員が、呻いた。聞いたことがある? 死にかけた人間が今際の際に発する、とても肺や喉を通しているとは思えない、巨大な鼾みたいな音。あれに似ていた。けれど左隣の構成員の声はすぐに消えた。喉笛か気管か、もしかしたら脊椎が潰れたのかもしれない。その構成員の体の痙攣は一度きりだった。先輩はぱっと手を開いた。どさっと音がして、構成員だったものの肉体が地面に落ちた。床に転がったそれは、首がおかしな方向に曲がっていた。
クモ先輩がぼくのほうを向いた。心臓が早鐘のように、耳の真横にあるみたいにどきどきした。
先輩は中ほどの手の指を組んで、口を開いた。
「時間を確認しましたね。──いま、何時ですか」
「……じゅう、さん…」
ぼくは時計を確認して、言葉を発しようとしたけれど、口のなかがカラカラに渇いて何も言うことができない。早く答えなければ。ぼくは舌で口のなかの唾液をかき集めて喉を湿らせて、やっとのことで時間を言う。
「13時5分、10秒です」
「ふむ」
仮面ごしのくぐもった先輩の声が響いた。ぼくはあえぐように呼吸をしている。見苦しい、殺されるかもしれない。けれど浜に打ち上げられた魚のように、浅い呼吸を繰り返すのを止められない。
先輩の左腕がすっとぼくの首に触れた。死ぬ。殺される、と思った。それもいい。だって先輩が最高に美しくて、強くて素敵なところを拝見したところだったから。さっきも言っただろう、蜘蛛の巣にとらわれた獲物ってこんな気分だろうか、って。圧倒的に強い存在に生殺与奪を握られて、ぼくは頭がくらくらした。
先輩は人差し指を立てて、どくどくと脈打っているぼくの頸の動脈に触れた。黒い革の匂いがして、視界が揺らぐ。先輩が支給品のハイネックの制服をめくって頸動脈を数センチ辿る。ぼくのめまいが激しくなる。
「長く働けるといいですね」
先輩の手袋がぼくの皮膚から離れる。先輩がぼくの制服から手を離す。すれ違って去っていく先輩の背中を追いかけて、ぼくはふらつきながら走り出した。

──それだけ? それだけってなんだよ。充分だろう? そして適性を見出され、オーグメンテーションを受けたぼくに、先輩は「これからは仲間ですね」って、ぼくの肩に手を置いてくれた。あんなに圧倒的に強くて美しい格好の良い存在が、ぼくを生かすも殺すも自由だった先輩が、ぼくを仲間だって仰ってくれた。ぼくはうれしくって、たまらなくって……ずっと、先輩をお慕いしているというわけ。