※主人のいない奇妙な館でクモオーグが執事、K.Kオーグがハウスメイドをしています。
ぼくはカマキリカメレオンオーグ。通称K.Kオーグ。職業はハウスメイドだ。メイドなのでエプロンドレスを着ている。鏡の前でくるりと回ると、パニエで膨らんだスカートがふわりと広がって、躯の動きから一歩遅れてついてくる。メイド服はシックでクラシカルなスタイルで、全体的な色調は白と黒だ。頭にはヘッドキャップが留まり、胸元には大きなリボン、フリルのたっぷりついたエプロン。肩のところがまるい、後ろ開きのロングスカートのワンピース。両の太腿にはガーターベルト、左右二つずつ小型のナイフを仕込み、ついでに長い靴下を留めている。足元は編み上げのブーツ。これには仕掛けがあって、左足の爪先で靴先を軽く叩くと刃が飛び出す。不逞の輩を「シャッ」と殺る仕組みだ。
もう一回転。
裾の両端を持ち上げて、お辞儀。
「レヴェランスですか? きみにバレエの嗜みがあったとは」
「嗜み? さあ、ぼくはオーグになる前のことも、ここに来る前のことも、思い出せないので…。でも、それでいいんです。クモ先輩がいれば」
先輩がこちらへやってきて、ぼくが映っている鏡に先輩が映る。それってとても幸福なことだ。
ぼくが住み込みで働くお屋敷では、クモ先輩が執事をしている。館の差配は先輩が取り仕切っていて、いつも完璧だ。先輩の差配はいつも完璧だ。先輩の制服は燕尾服で、肩から上部二本の、腰のポケットから下部二本の副腕が顕れる。ベストとネクタイは揃いで、黒と臙脂だ。クモ先輩はいつも黒と赤の意匠の仮面(マスク)を着けている。正確には先輩には人間としての顔も声帯も存在しないとのことなので、「着けている」というより仮面はすでに先輩の顔なのかもしれないが、先輩もぼくも便宜上仮面(マスク)と呼ぶ。先輩の仮面には無数の孔が空き、先輩曰くその部分のレンズ越し視界が確保されているらしい。眼球がたくさんあるみたいでとても素敵だ。先輩を前にすると、無数の眼に見つめられているみたいでどきどきする。仮面の頭側部からは先輩の名のとおり、クモの脚を思わせるドレッドが垂れている。洗練された身のこなしの先輩のふとした所作のたびにドレッドが揺れて、ぼくは見惚れる。先輩が喋ると、人間の眼のあたりの緑のランプが光る。左右のランプの下にはガスマスクに似た部分は蜘蛛の糸を吐き出す器官だ。先輩が蜘蛛の糸で捕らえてぼくがとどめを刺す、ぼくたちは最強のチームというわけ。
暗殺なんて技がどうして執事やメイドに必要なのかって? それはぼくにも分からない。でもそれは大事なことじゃない。大事なことはぼくと先輩が同じ館に暮らし、仕事をしていること。それだけ。
ぼくと先輩が出会った日のこと。ぼくは門前の、石の積まれた階段に腰かけて、途方に暮れていた。手にしていたのはメイドの求人票。尻の隣には最低限の生活用品を詰め込んだトランク。開けて確認したわけではないけれど、何が入っているかはだいたい分かる。しかしそれ以外のことは分からない。求人票の連絡先を頼りに屋敷を訪れたということは確かなのだけれど、この求人票をどこで見たのか、そもそもぼくはなぜ求職していたのか、今までどこに住んでいたのか、そもそも名前はなんだっけ。思い出せない。ただ、ここで雇ってもらわなければいけない。そのことだけは確信があるのに、午(ひる)過ぎから待っているうちに陽が傾いてしまった。ぼくは鉄製の蔦の細工が施された門扉を覗き込んで、屋敷の庭を眺める。庭木も草も伸びっぱなしだ。やりがいがあるといえばそうかもしれない。ぼくは再びトランクの横に腰かけた。陽が傾いて黄色っぽい光が石段に差す。やがてオレンジになり、やがてとっぷりと陽が暮れた。屋敷は通りに面しているからガス灯からはさほど離れていないけれど、どうにも頼りない。
ここで雇ってもらわなければいけないはずなのに。何度目だったか、膝を抱え直して俯いたぼくに、影が差した。誰かがぼくを覗き込んでいるらしい。
「……っ!」
喉が詰まった。
クモ先輩。
ぼくは立ち上がり、声にならない感情で叫んだ。
名前の通り、蜘蛛を模った仮面(マスク)を着けた先輩がそこにいた。頭部に開いた無数の孔が、無数の眼のようにぼくを見た。
「K.Kオーグ。こんな時間に…、」
先輩のコートの肩はから上部二本の、腰のポケットからは下部二本の副腕が顕れている。先輩は下方の複腕のうちの一本で、ぼくの求人票を手に取った。
「なるほど。これを見たのですか」
「いえ。…見たは見たに違いないんですけど。ぼくは何も思い出せないんです」
「ふむ」
「気がついたらここにいました」
「いつからここに?」
「昼からです」
「ひどく待たせてしまったようです」
「こんなの、なんでもありません」
「しかし、……触っても?」
「はい」
先輩は黒い革手袋越しに、促すようにぼくの背に触れた。
「少し躯が冷たいようです」
「そうですか? オーグメンテーションを受けてから、ぼくは頑丈だから、あんまり暑いとか寒いとか、分かんないんです」
先輩は門の閂を開けて、「入りなさい」と言ってくれた。
館に足を踏み入れてみると、室温はしんと冷えていた。先輩が留守にしているあいだ、屋敷に人気はなかったらしい。ぼくはほっとする。ぼくがいないところで先輩が誰かと暮らしている可能性は、高くはなさそうだ。あれ、と続いて疑問が浮かぶ。先輩の服装は屋敷の主というよりも上級の使用人という感じだった。執事のような。首を傾げるぼくに、先輩はソファに腰かけるように促し、自身も正面のソファに腰かけた。
ぱちぱちと音をたてて、暖炉の炎が次第に大きくなっていく。先輩は部屋のランプも灯していたけれど、暖炉の近くは炎の赤い光がひときわ強い。
「きみの訪れを、待っていました」
先輩がぼくを待っていただなんて。そう告げられて、ぼくは天にも上るような心地になった。
「先輩、会えてよかったです、」
ぼくは怖いものなんかなくなって、その勢いで気になっていたことを訊いてしまった。
「先輩は、ここに……ひとりなんですか」
「ええ、」
黒と赤、そして緑の先輩の仮面が赤がかった炎に照らされている。「ええ」ということは肯定なのだろうけれど、先輩の声はどこか心ここにあらずというか、言葉を探しているようだ。ざわ、とうなじの膚が粟立つような感じがした。
「奇妙に思うでしょうが、屋敷に主はいません。執事の私だけです」
「そんなの」
先輩の合成音声が済まなそうな響きになる。ぼくは咳き込むように遮った。
「気にしません。先輩がいるんだったら、ぼくにはじゅうぶんですです。ええと、住み込みのメイドの求人を出してましたよね、求人票を持ってきました。ぼくはメイドなんです。なら――」
「きみを雇います」
先輩はゆっくりと、はっきりと言った。子どもに聞かせるみたいに。でも、ぼくはそれがちっとも厭ではない。
「もとより、きみを雇用するための求人票でした」
「いいんですか、」
「ともに暮らしましょう」
先輩の言葉が涙が出るほどうれしくて、ぼくはこれまでの何もかもが報われたと思った。これまで? これまでとは何だろう。鉄扉の足元で、一人で座っていた時間のことだっただろうか。それとも、もっと以前の記憶だろうか。オーグメンテ―ションを受けたのはいつ生まれた、誰のことだろう。そんなことなんかぼくにはどうでもよくなっているのだけれど、先輩はこの街にはイチロー君とサソリ、ハチもそれぞれ主のいない屋敷で使用人として暮らしているのだと言った。ケイは主を失った屋敷でフットマンとして働いており、彼を介して互いの館でパーティなどの催しの通達があるのだという。
それらはぼくにとってそんなに大事なことでもないのだけれど、耳に入ってきたし、せっかく先輩が伝えてくれたことなので、頭の片隅に留めておくことにした。
「……夜が、深くなってきたようです」
先輩はそう言って、ソファから立ち上がった。燕尾がふわりと優雅に漂う。
「各部屋の案内は明日にしましょう。K.Kオーグ、きみの部屋はこちらです」
ついてきなさい。先輩にそう告げられて、ぼくも席を立つ。部屋を出て階段を上がる。建物は年季を感じさせたけれど、手すりはぴかぴかに磨かれている。きっと先輩が磨いているのだろう。
先輩が二階の端の扉を開けて灯りを点し、ぼく好みのこぢんまりとした部屋だった。本棚に箪笥、ベッドとチェスト、書き物机と椅子。それぞれ埃よけに白い布が被せてあるのを先輩は外していく。疲れたぁ、とぼくはぽすんとベッドに腰かける。
「何か足りないものがあったら言いなさい」
「先輩の部屋は? どこですか?」
「…隣です、」
「先輩の部屋で――」
「疲れたのではなかったのですか」
先輩は呆れたように呟いて、
「今夜はゆっくり休みなさい。各部屋の案内は、明日にしましょう」
と部屋を出て行った。
「ちぇっ」
残念ではないといえば嘘だ。けれどぼくは荷物をテーブルに置いてベッドに座った。埃避けが被せてあったけれど、埃は積もっていない。黴くさいっぽい臭いも、湿った感じもない。小さな窓には雨戸が閉まっているけれど、きっと定期的に開けて空気を入れ替えていたのだろう。
「ふふっ」
ぼくの部屋。ぼくひとりのための部屋。胸が高鳴る。ぼくひとりの部屋なんて、持ったことがないような気がする。そのせいだろうか。それとも、先輩と同じ屋敷で暮らせることが嬉しくて、こんなにふわふわといい心地なのだろうか。
どちらでもいい。なんでもいい。
ぼくはベッドに倒れんで、枕をぎゅうと抱えてベッドを転がった。
大事なことは先輩とぼくがいること。それだけ。
『シャーリー』パロです。